魔性論

ファム・ファタール(魔性の女)とは生きる芸術である。魔性を呼び覚ます言葉の魔術の探求の記録

女性は昔から、愛され守られてきました

こんにちは。今日はフェミニズム的なことについて少し書いてみたいと思います。

 

ヴァージニア・ウルフという女性作家の『自分ひとりの部屋』という本があります。

1928年にケンブリッジ大学の女子カレッジで行われた講演の原稿が出版されたものです。ウルフは当時まだまだ珍しかった女子大学生たちに向けて、「女性と小説」というテーマで話をしました。

親しみやすく話しかけるような調子で書かれていて、今のフェミニズム的な人たちがしばしば持っている高圧的な感じは全然ありません。

この本について一般的には「フェミニズムの古典」と言われます。確かに、内容としては女性の自立を促すものです。

 

ですが、ある箇所を読んでいて、そこに見逃すことのできない大切なこと、つまり「女性は守られることで幸せになれるし、才能や能力を発揮できる」という事実が書かれている気がして、ハッとしたのです。

 

何かしらの才能があれば誰だって、それを開花させたいし、その成果を他人に認められたい、という欲求を持ちます。

第四章で、女性に生まれたことでそれが叶わず、不遇の生涯を暮らしつつ、それでも困難と戦いながら少しずつ女性作家の居場所を開拓した、17世紀から19世紀までの女性たちの描写が次々と続くのですが、

その中の最初の二人の話に、とても重要な事実が隠されていました。

その二人とはアン・フィンチとマーガレット・キャヴェンディッシュという17世紀の女性作家なのですが、「ものを書く女なんて頭がおかしい」と思われていた時代なので、作品を思うように発表したり正当な評価を得たりすることができませんでした。ウルフは、彼女たちの、才能を形にできないことに対する恨みと怒りをぶちまけた文章も紹介しています。

けれども、私がその中で通り過ぎることができなかったのは、二人とも夫に愛され、結婚生活は幸せだったという記述でした。ウルフ自身はそのことに注意を促さず、一言述べるだけで通り過ぎていますが、きっとその夫たちがいなければ、アン・フィンチもマーガレット・キャヴェンディッシュも名前さえ残っていなかったのではないかと思います。

だって女性がどのような生活をしていたか、何を感じていたかについての記録が全然残っていない時代でしたから、そもそも二人とも存在丸ごと歴史の闇に葬り去られていてもおかしくなかったはずです。

(貴族の、お金のある)夫が彼女たちを支え、作品を出版するという当時としてはあり得ない行為も理解してくれたから、私たちは今17世紀という400年も昔の女性について知ることができるのです。

彼女たちは愛され守られたから、小さくとも才能を形にすることができたのです。

 

記録は残っていないけれど、きっといつの時代もそうだったのではないかと思うのです。社会の建前では女性は軽蔑されるべき無能とされていても、きっと恋愛や家庭の中では愛され、守られ、敬意を払われていた女性たちがずっといたと私は思います。

 

第四章では、アフラ・ベーンという、夫に先立たれ自分の才能だけで生計を立てたキャリア・ウーマンも登場します。彼女は確かに自分の力で道を切り拓いた自立した女性といえるかもしれません。

しかし、彼女もまた17世紀の人です。17世紀の現実社会がもし本当に当時の「正しい考え方」であった「ものを書く女なんて頭がおかしいから小屋にでも閉じ込めておけ」という凝り固まった頭の人々しかいなかったなら、やはり彼女は巨大な才能の持ち主であったにもかかわらず闇に葬り去られていたでしょう。

 

私が言いたいことはつまり、これらの女性作家たちに対して、その個人だけを見るのではなく、彼女たちの周辺の男性たち、例えば彼女たちの夫とか、親しくしていた友人とか、彼女たちの本を手に取ってみたり、劇を観に行ってみたりした、そういった人たちに目を向けたいということなのです。

「アン・フィンチ」「マーガレット・キャヴェンディッシュ」「アフラ・ベーン」という名前ではなく、彼女たちを曲がりなりにも受け入れた人たち、とりわけ男性たちの感情を想像したいのです。

それが女が書いたものだからそもそも買わない、読まないという人もいたはずです。でもそうじゃなかった人たちも確かにいた。そういう良心的な人々が400年前から存在していたことは確かな事実なのです。

きっと彼らは顔には出さずとも、根は親切な人たちだったに違いありません。「悔しいけれど彼女にはそこいらの男よりも才能がある」と、口には出さずとも認めていたはずです。

彼らは時には女房を殴ったり、変わった行動をとる女性に対し冷酷でしたが、アフラ・ベーンの書いた劇を見て気を紛らわすのも好きでした。

彼らは善良で、親切で、家では時々夫婦喧嘩をしながらも子供を可愛がり、そして平凡でした。

そしていつか、才能ある人がその性別や身分にかかわらず自由に創作できるような「今より良い社会」を、言葉には出さずともおぼろげに夢見て、その微かな希望を子や孫たちにそっと託して、苦しい人生を乗り越えて行ったのでした。

彼らの人生を、想いを、気力を「愛」と呼ばずしてなんと呼ぶのでしょうか。

 

私はそのようないつの時代にも存在したに違いない、平凡で善良な人たちに目を向けたいのです。

飛び抜けた才能があったがゆえに名前を遺した非凡な人たちではなく、むしろそのような平凡で平均的な人たちが歴史を作っているような気がするのです。

 

女性を抑えつける力に対して戦うことは、今も生存の保障すらされていない地域に生きる女性たちにとっては必要なことだと思います。

しかし例えばこの日本では一応法律上はきちんと権利が保障されています。昔は法律で女性の財産は夫に属すると決められていました。今は違います。この違いにも平凡で善良な人たちの愛が密かに働いています。

そこにあったのは戦いだけではなく、愛がありました。

現代の世界には、平凡で親切で善良な、才能ある女性に敬意を払う人々がたくさんいます。また、そのように際立っていない、ごく普通の女性に対しても、彼女を愛し守ることができる男性がたくさんいます。そしてそのような男性たちは昔からずーっといました。女性を愛し、守ってきました。

 

私はつまりこう言いたいのです。

敵意を剥き出すのではなく、この世界の平凡な良心を信じ、愛し、安心して守られてください。

「自分は安全なところにいる」という感覚を持ってください。持って、というより、そのことに気づいてください。

私たちはもう十分に守られているし、安全な世界にいます。

敵を作らなくていいです。戦わなくていいです。ここは地獄ではありません。

女性は今も昔もずーっと、愛され守られてきたのですよ。あなたにもその血が流れています。あなたには愛され、守られる才能が生まれながらにあるのです。

 

今日はここまで。あなたの人生がより瑞々しく、色彩豊かになりますように。